幸せになるのが怖かった。温かい家族に囲まれている自分が想像できなかった。不幸と長く付き合ってしまった人間は、いざ自分が幸せになるチャンスを手に入れても、怖じけづいてせっかくのチャンスを手放してしまう。ロマン・ポランスキー監督の半生は、あまりにも波瀾万丈すぎた。ユダヤ系ポーランド人であるポランスキーの少年時代、妊娠中だった母親はナチスの収容所送りとなり、そのまま帰ってこなかった。終戦後、再婚した父親とは疎遠になった。映画監督となったポランスキーは、ハリウッド進出作『ローズマリーの赤ちゃん』(68)で大成功を収めるが、最愛の妻シャロン・テートはカルト集団によって惨殺される。シャロンは妊娠8カ月だった。心のストッパーの壊れたポランスキーは13歳の少女との淫行事件を起こし、米国から欧州へと逃亡。『テス』(79)の主演女優ナスターシャ・キンスキーとの破局後、33歳年下の女優エマニュエル・セニエと結婚する。ようやく訪れたパリでの平穏な生活だったが、セニエが妊娠することをポランスキーは恐れた。せっかく積み重ねた幸せが、またジェンガのように壊れていくのではないか。天才監督は自分自身の主演する物語がハッピーエンドを迎えることに躊躇した。 2009年、チューリヒ映画祭で生涯功労賞を受賞することになったポランスキーはスイスへと向かうが、空港に到着した直後にスイス警察に拘束される。1977年に起こした少女淫行事件のことを米国司法が蒸し返してきたのだ。ポランスキーは刑務所に9カ月間拘留された後、保釈金450万ドルを支払って釈放されたが、その後もスイスにある別宅での軟禁状態を余儀なくされた。『ロマン・ポランスキー 初めての告白』は別宅からの外出を禁じられたポランスキーを取材撮影したドキュメンタリー作品だ。長年のビジネスパートナーであるアンドリュー・ブラウンズバーグが聞き手となり、ポランスキーが経験してきたスキャンダラスな事件の数々を自分の口で語らせている。『戦場のピアニスト』(02)さながらの決死の逃亡劇を体験した少年時代、『ローズマリーの赤ちゃん』が悪魔崇拝を題材にしたオカルト映画だったことからシャロン・テート事件の真犯人はポランスキーではないかと疑われたこと、少女淫行事件ではマスコミが騒いだことで被害者少女のその後の実生活まで暴かれたこと……。ポランスキーが過去の淫行事件を認め、被害者親子に謝罪の手紙を送ったことも明かされる。多分、脚本家がドラマ化しようとしたら「こんな荒唐無稽なストーリー、ありえないから」とお蔵入りされるだろう。1977年に起こした少女淫行事件を理由に、
スイスで軟禁状態となったロマン・ポランスキー監督。
スキャンダラスな生涯を赤裸々に振り返る。
ポランスキーは名監督であると同時に、非常に優れた俳優でもある。『チャイナタウン』(74)での狂気を目に宿した殺し屋役は絶品だった。本作ではカメラを前にして自分のこれまでの人生を振り返るが、まるで哀しみと憎しみの彼岸に立ったような淡々とした表情だ。自分の中に渦巻く業だとか宿命だとかを、自分なりに受け止める術を76歳となったポランスキーは身に付けたらしい。決して、遠い昔の出来事として記憶が薄れたわけではない。ゲットー(ユダヤ人強制居住区)時代に強制作業で紙袋を作らされた少年期の思い出を語るシーンでは、テーブルにあった紙を折り畳んで、そのとき作っていた紙袋を瞬く間に再現してみせる。顔は笑っているが、ポランスキーの体に染み付いた記憶はいつまでも消えることはない。収容所送りとなった母親との別れの瞬間、ポランスキー少年は泣くことが許されなかった。涙を流したら、自分や他の家族たちもユダヤ人であることが発覚してしまうからだ。それまで穏やかに話していたポランスキーだが、70年前に別れた母親のことを思い出して、大粒の涙を浮かべる。70年ものの涙はあまりにも苦い。 『フランティック』(88)の主演女優エマニュエル・セニエと一緒に暮らし始めるも、しばらくはセニエが妊娠すること、自分が父親になることを迷い続けた。実の母親も、「自分がもっとも輝いていた時期」と振り返る30代のときに結婚したシャロン・テートも妊娠中にポランスキーの前から消えていった。目の前の幸せと不幸な過去との間で、ポランスキーは揺れ動いた。自分が家族の真ん中に佇むことに戸惑いを感じていた。だが、ここでそれまで聞き手だったアンドリュー・ブラウンズバーグが面白い仮説を打ち出す。長い間、本当の家族と過ごす幸せを知らなかったポランスキーだが、映画の製作スタッフやキャストのみんなが彼にとっての家族だったのではないかと。ポランスキーのことを敬い、慕ってくれる仕事仲間たちがいたからこそ、今日のポランスキーがあるのではないかと。数々のトラブルに見舞われながらも、ポランスキーは決して映画製作を止めることはしなかった。ポランスキーの自宅に飾られた撮影現場の記念写真では大勢のキャストやスタッフに囲まれたポランスキーの笑顔があった。映画製作を通して、ポランスキーは“父親”になることをすでに経験していたのだ。『戦場のピアニスト』の撮影現場。少年期をゲットーで過ごした
ポランスキー監督の体験がそのまま投影された作品だ。
ポランスキーはスイスでの軟禁中にユアン・マクレガー主演の政治ミステリー『ゴーストライター』(10)のポストプロダクションを済ませ、軽快なコメディ『おとなのけんか』(11)の製作準備を進めていく。それまでのポランスキーは恐怖、孤独、猜疑心を扱った作品が多かったが、『おとなのけんか』はジョディ・フォスターやケイト・ウィンスレットら大人の俳優たちが子ども同士のケンカを巡って大騒ぎするユーモアたっぷりな室内劇で、最高にシャレたエンディングが印象的だった。子どものために、親たちが真剣にケンカする。巨匠となったポランスキーにとっても、『おとなのけんか』の撮影は夢のように愉快な体験だったに違いない。 (文=長野辰次)2番目の妻となった女優シャロン・テート。
結婚の翌年、1969年にチャールズ・マンソン・ファミリーによって殺害される。
